あざらしとう
海豹島

冒頭文

二日ほど前から近年にない強い北々風が吹き荒れ、今日もやまない。東京に住むようになってから十数年になるが、こんな猛烈な北風を経験するのははじめてである。北風独特の軋るような呻き声は、いまから二十数年前、氷と海霧にとざされた海豹島で遭遇したある出来事を思い出させる。子供たちはとっくに寝床にゆき、広すぎる書斎に私はひとりいる。虚空にみち満ちる北風の悲歌は、よしない記憶を掻きおこし、当事の事情をありのまま

文字遣い

新字新仮名

初出

「大陸」1939(昭和14)年2月号

底本

  • 久生十蘭全集 Ⅰ
  • 三一書房
  • 1969(昭和44)年11月30日